no.8 デザイナーインタビュー #401 瀬下黄太

デザイナーインタビュー #401 瀬下黄太(AMP GALLERY & CAFE・アトリエてらた/プロの遊び人)

山王Rプロジェクト(2007)で「ヴぁ~~~」て感じの衝撃的なお部屋をリノベしていただいた瀬下黄太さん。芸術家であるお父様のアトリエを自らリノベーションした「アトリエてらた」で波乱万丈な人生を語って頂きました。

『今振り返ると全部リノベしてきてるんですよ。突貫的な感じで。自分達でね。』

Q:学生時代はデザインの勉強をされてきたのですか?
A:はい。高校と専門学校ではグラフィックデザインの勉強をしていました。専門学校ではほとんど勉強せずにふらふらして遊んでました(笑)

Q:その後はどのようなお仕事をされてきたんですか?
A:1985年位ですかね。20歳のときに友達からレコード屋をやらないかという話があって。パンクやニューウェーブ専門の輸入レコード屋の店長を。6年間。東京に本社がある「UK EDISON」というお店で。高校生からバンドやっていて。もともとそのお店にレコードを買いに行くくらいのファンでね。福岡店が出来るってことでその話聞いて飛び付いたんですね!そこでいろんなミュージシャンが来てて。で、そこに出入りする「デイト・オブ・バース」というバンドがありまして。北嵜くん若いから知らないと思うんだけど!でもたぶん音は聞いたことがあるんじゃないかなぁ!

その「デイト・オブ・バース」はバンドなんですけど、録音スタジオ運営とかCM制作とかやる会社を作っていて。そこにレコード屋をやめて働きにいきました。そのバンドがキティレコード(現ユニバーサル)でメジャーデビューしていて。小泉今日子が出てたドラマで「あなただけ見えない」っていうサスペンスドラマがあるんですけど。その主題歌でヒットしまして。夜パレとか出ちゃったりしてね。で売れたから、ライブやらなきゃいけねいって展開になって。スタッフしながらサポート、ギターとコーラスで全国廻ってましたね。3.4年位かな。

自分のバンドもやっていて。キティレコードだったからしょっちゅう東京いってて。そのキティレコードからCD出さないかって。で上京するんです。1995年位かな。一人で。で、ポシャるんです(苦笑)。バンドがね。で、他のバンドをしながら、働いてて。売れないバンドマンみたいな。パンの耳食いながら、風呂なしのアパートで。でも楽しくやってたんですね。
そしたら、キティレコードで「デイト・オブ・バース」の担当ディレクターがイーストウエストジャパン洋楽部(現ワーナーミュージック)に移籍して。プラプラしてた僕を引っ張ってくれましてね(笑)。そこで制作を何年かやらせてもらって。

イーストウエストジャパン洋楽部にいる頃の話なんですがね。また話がさかのぼるんですが、キティレコードのディレクターで森川さんが独立して始めた「オフィスオーガスタ」という音楽事務所があって。そこは「山崎まさよし」とか「スガシカオ」とか「スキマスイッチ」とか「元ちとせ」とかが所属してる事務所なんですが。社長がビートルズファンで。僕もビートルズおたくでね。しょっちゅうその話で事務所に遊びにいってて。それでまだデビューしたばかりの山崎まさよしくんと服のサイズが同じで。僕服が好きで、社長も好きでね。で山崎くんに服かしてたりしてた。(笑)僕もまだ痩せてたしね(笑)。スタイリストとかもいないからね。だから初期の山崎くんの衣装はだいぶ僕のなんですよ(笑)。

そうこうやっているうちに会社を辞めましてね。でオーガスタの森川さんに「やめちゃいましたっ」て話したら。じゃあ、あまってる服とかたくさんあるし古着屋やろうって軽い感じで始めることになって。じゃあ、お前洋服部門の担当だってことになって。でもう一人を本職のオリジナルの服をつくる相方と二人ではじめて。東京の中目黒に「ライディングハイ」っていう古着とオリジナルブランドを出す小さなお店をつくったんです。2000年くらいかな。

拾われた人生なんですよ。綱渡り的な感じでずっと(笑)。
で洋服屋やってて。向いてなかったのかな。すごく忙しかったし。音楽もその頃全然出来てなくて。で、辞めましてね。福岡の実家に帰ってきました。ですぐ帰るつもりが居心地よくてね(笑)ご飯美味しいし。東京のスピード凄くて。そのまま福岡でやってこうて事になりまして。で離婚もしましてね(苦笑)。いろいろとありまして。

で、福岡に帰ってきまして。ふらふらしてましてね。でまた戻るんです。デイト・オブ・バースに(笑)。その中の一人のメンバーが違う仕事やってて。3Dソフトの販売元とか携帯を使ったインスタレ-ションとかの企画とかやってまして。愛知万博で携帯を使ったインスタレ-ションをやったんです。毎日。その携帯データの管理の仕事しないかって。でやってるうちに事務所探ししなくちゃって。で大濠あたりの戸建てをリノベーションして作ったんです。1階がギャラリーで2階が事務所にして。
で1階の「マーズギャラリー」っていうギャラリーの担当をしました。兄の寺田太郎の個展や父の寺田健一郎の個展とかいろいろやってました。

しばらくして。2007年になりまして。その頃工房を兄(寺田太郎氏)がさがしていて。それまでは三瀬でやってたんですが手狭になりまして。で吉野ヶ里にでかい倉庫を見つけまして。そこが今のAMPですね。そこで倉庫をリノベーションしてギャラリーとかカフェ作って。でその年の冬に「山王Rプロジェクト」ですよ。 だからこの年2007年はずっと造りっぱなしで。

今振り返ると全部リノベしてきてるんですよ。突貫的な感じで。自分達でね。
レコード屋の「UKEDISON」は元々バーでそこをレコード屋に。古着屋の「ライディングハイ」は小料理屋でしたね。ここは解体工事から始めました。そこはプロの内装チームと組んでやりました。
で、マーズギャラリーの時もデザインチームつくってみんなで造りましたね~。壁とか床とか全部モザイクタイル貼ったり。外部に木格子造ったりね。 でAMPギャラリーは元々倉庫で。幽霊屋敷って言われてたところを掃除から初めて。掃除で3カ月位かかってね。でかいから。屋根も割れてて雨漏りしてて貼ったりとか。 で山王Rです。

Q:5年前にデザインした山王Rプロジェクトのお部屋について教えてください。

A:山王Rプロジェクトでは初めて住まいをつくったんですけど、兄の寺田太郎の作品を活かすみたいな考えで。あとヒントになったのはここ(現アトリエてらた)に吉原さんが来てね。太郎に「アトリエの雰囲気いいなぁ」って言ったらしくて。それをヒントにして太郎の作品を手摺りとか取手とかに配置して、アトリエの床に落ちた絵具をデフォルメして床に何色か色付けしたんです。
それとピンクフロイドにいるシド・パレットのファーストソロアルバムのジャケットの床に憧れてて。アトリエの床とジャケットのアイディアを合体させて出来たのがあの床ですね。太郎の作品を活かすことを大前提に、床やその周辺をデザインしたんです。照明もオリジナルで造ったり。試験管のやつね。
兄の太郎と、僕と。内装のプロの峰とアーティストの藤瀬、4人のチームでやりましたね。で4人で話してたのがアート関係の集団がやるんだから扉を開けた瞬間「ヴぁ~~~」って反応、それぐらいのインパクトあるものつくりたいよねって。で見学会したときにね、開けた瞬間「ヴぁ~~~」てみんななってさぁ(笑)。その時はうれしかったね~!!面白かったですよ(笑)床とかすごいじゃないですかぁ!だからあの見学会はすごい楽しかったですよ。

(北嵜)確かにオーラが半端なかったですよね。他のお部屋はプロの職人さんに図面や打合せでオーダーして全部作ってもらったのと比較して、瀬下さん達は設備的な部分以外は全部アーティスト的な感覚で、さらに自ら手を動かし作られていたので。その手触り感というか雰囲気というか、半端ないオーラでしたよね。凄かったです!!

その後、いろいろと内装デザインのお話頂いてて。2008年に鹿児島のビル一棟を全部装飾してくれとかクラブの装飾とかいろいろあったんです。けど兄の太郎が死んじゃってね。出来なくなっちゃって。
*瀬下さんの兄、造形作家の寺田太郎さんは山王Rプロジェクト完成後の2007年12月、不慮の事故により他界されました。

Q:今回のリノベーションについて少しだけお話頂けますか?
A:はい。1年前にここをしましてね。「アトリエてらた」ここの経験を活かしてやろうかと。で、前回とは違って今回は「ヴぁ~~~」ではなく「あっ!!!」みたいな。さりげなく驚かすみたいなね。で今回は先にベース作ってもらってるから。出来たものに細かなテクスチャーとか表情とかを付けていく作業をこれからやっていきますね。やりながら考えていく感じで。

Interview&Photo(アトリエてらた):北嵜剛司
Photo(山王R):松本和生

プロフィール:瀬下黄太
吉野ヶ里「AMP GALLERY & CAFE」、福岡「アトリエてらた」の代表
博多のラトルズ?THE GOGGLESのギター担当
巷で噂の1968年型サイケデリックバンドのStrawberry Chocolate ‘s Surf Club BandのVO & Gも担当
基本PUNK(精神的に)PUNKレコード屋〜音楽事務所〜レコード会社〜洋服屋等職歴沢山

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